ななつめの雲

Twitterには書ききれない散文を置いとくために使います

ひとりぼっちはさみしいもんな

承認欲求の話をしよう。


この言葉をよく聞くようになったのはここ二、三年のことだろうか。

個人の所感としては主にSNS上で、たいていは悪い意味で用いられている印象がある言葉である。

あいつは承認欲求の塊だ、承認欲求丸出しの行動、など何か含みがある言い方がついて回るように思う。


他人と簡単に繋がれるSNSが隆盛を奮う現在だからこそ、こういった概念が注目を浴びているのかもしれないが、僕としては「この欲求は時代を問わず人間なら誰しも持っているものなのではないか」と考えている。


だって、この承認欲求というやつは、あまりに僕らの根源に関わる欲求だからだ。


親に褒められるために習い事を頑張る、好きな子の気を引くためにいたずらをする、後輩の前ではなぜだか格好つけてしまう、恋人のためにオシャレをする、ソシャゲでSSRを引いたらスクショを撮ってツイートする。


これらの行動はすべて承認欲求の賜物、すなわち「他者に自分の存在を認識されたい、そして他者に良く思われたい」という欲求で説明がつく。


こういった欲求は僕たちの生活の端々にまで顔を覗かせていて、現代人だけでなく数百年、数千年前の人間だって同じような欲求を持っていたことは想像に難くない。

だからこそ承認欲求は、人間が文明を持ってから、いやおそらく「他者」というものを認識するようになってから同時期に発生した、かなり深い根っこの部分にある欲求なのだろう。


さて、僕が知りたいのは現代社会と承認欲求の関係とか、文化の発展と共に見る承認欲求の変遷とかではない。

もっと本質的なこと、つまり承認欲求は何のために存在するのか、ということである。


僕は自分で言うのもなんだが、承認欲求が人より強いのではないかとこっそり思っている。

漠然となんかデカいことしてスゲーって言われたいと常日頃から考えているし、もはやデカいことしなくてもスゲーって言われたい。とにかく他人に承認されたいのだ。5000兆承認ほしいのだ。


しかし、現実はそう甘くない。

正当な手順で誰かに認められるためには、何らかの成果がなくてはならない。成果を生むためにはたいてい努力が必要で、しかも努力したからって成果が生まれるとは限らない。

日々を生きて努力して、でもなかなか上手くいかないことばかりで、もちろん承認なんてそう得られない。

それももちろん苦しいけれど、最も苦しいのは、強すぎる承認欲求のせいで、承認されない自分が嫌いになり、人生に嫌気が差してきて、挙げ句の果てに過去のトラウマまで蘇ってくることだ。


一通り悩んで冷静になって考えてみると、僕はこう思うのである。

承認欲求、これって何のためにある?



少し前に、「嫌われる勇気」という本がベストセラーになった。確か最近ドラマ化もされていたはずだ。

食わず嫌いをして僕はその本を読んでいないので詳しいことは語れないが、だいたいのテーマは知っている。

すなわち、承認欲求からの解放だ。

「嫌われる勇気」に書いてあることを実践できれば、承認欲求から逃れられるのかもしれない。そういう意味では、僕のような人間こそ真っ先に読むべきなのかもしれない。


しかし、まずは自分の頭で考えてみよう。承認欲求と折り合っていくためには承認欲求を自分なりに理解することがまずは必要だ(と思う)。この得体の知れないくせに僕らの行動や思考を縛り続ける欲求は、一体何を源に生じているのだろうか。



さて、前置きが長くなった。実はこの記事の内容は今朝大学へ向かう道すがらに考えたことである。断片的にはこれまでふとした時に思索にふけっていたが、今朝やっと自分なりに結論がまとまったので、こうしてその言語化を試みている。


承認欲求の正体を掴むために、僕はまず他の欲求との比較から始めることにした。


人間とは欲深い生き物で、Wikipediaを見るだけでも多数の欲求の種類がある。

しかしもっともわかりやすいのは、やはり「三大欲求」、すなわち食欲・性欲・睡眠欲だろう。

このうち、食欲と睡眠欲については、これらの欲求を満たさなければ死ぬ。つまり生きていくために取るべき行動を僕らに示してくれるシグナルとして解釈できる。

性欲については、これを満たさなくても死にはしない。しかし、性欲がなければ子孫を残せない。人間がいくら知能が高く必要性を理解しているからといって、性欲が全くない状態でそういう行為ができるだろうか?


ここで、ある仮説を立てることができる。

すなわち、「あらゆる欲求は個体あるいは種としての命を維持するために必要なものである」という仮説である。

仮説の根拠となるのが三大欲求だけというのはいささか不安だが、この際ここは目をつぶろう。

重要なのは、承認欲求にもこれを当てはめて考えてみるということである。


まず、他人から承認されないということは生理的に死に直結するだろうか?

僕の知る限りではそのようなことはない。もしかしたら他者から承認されることによって脳がホルモン様の物質を出しそれが生命維持に必須である、という可能性もあるのかもしれないが、ツッコミどころが多すぎるしこれは考えなくていいだろう。


では、性欲と同じようにして、間接的に生命を支えている?

これも色々考えてみたがすぐに行き詰まった。

承認という概念がとにかく曖昧すぎるのだ。結局のところそれは自分がどう判断したか、ということでしかない。

明らかなお世辞でもそれに気付けない人は承認欲求が満たされるだろうし、疑心暗鬼に陥っている人は本心からの賞賛でも心が弾むことはないだろう。

自分にその基準がある以上、他者からの承認によって何か物理的・科学的な変化が起こるとは考えにくい。それこそ何か脳内麻薬がドバドバ出るくらいだろうか。


もっと単純に考えよう。誰からも承認されないでただ生きながらえるとしたら、僕はどうなる?

具体的には、世界に生き残った人間が僕一人になった状況を考えてみる。

何をしても他の人間に存在を認めてもらえることもなく、賞賛されることもない。

それは絶対的な孤独で、そんな状況になったら、ウサギではないが寂しさで発狂して死んでしまうのではないだろうか。


そう、死ぬのである。

この思考実験は、承認欲求が満たされないと生きていけないことを示している。

これは前述の仮説に承認欲求も従うことを示唆している、かもしれない。

つまり、承認欲求を満たさないと死ぬ。これは三大欲求と同じだ(性欲についての議論は上でした)。しかし承認欲求が生きていくために必要か、ということまでは言えていない。


ではさらに掘り下げよう。

なぜ絶対的な孤独は我々にとって致命的なのか?

この答えにあたるものは、僕の完全な想像である。でも、きっと正しいと確信している。

人は孤独だと、自分という存在があやふやになるのだ。自分がほんとうに存在しているかは、自分にはわからない。何か自分の存在を立証してくれる外部の存在がいないと、僕たちは自分を保てないのではないだろうか。


先ほどの例に戻ろう。

もし世界で自分だけが生き残ったとしよう。人間だけが自分以外絶滅したなら、他の動物や植物は生きているかもしれない。仮に草の根も絶えた死の世界でも、きっと目に見えない微生物たちは生きているだろう。

もっと想定を厳しくして、自分以外の生命すべてが消え去ったとしても、岩とか水とか空気とか、もっと細かくいろんな原子とか分子とかは存在する。

つまり、「他者」はどうしたって存在するのである。

それでもそんな世界では承認欲求は満たせない。自己存在の確立を支えてくれることはない。

それは、人間以外のそれら「他者」は、自分の観測した世界の内側にいるものだからである。それらは僕たちと同じように世界を観測することはない。君はここに確かにいるぞと、僕たちに教えてくれることはない。

それらはあくまで観測者である僕らに従属する存在で、そういう意味で僕らがそれらを対象に意識を払うことはない。


それにひきかえ、他人はわからないことばかりだ。

コミュニケーションのおかげで多少なりとも僕たちは意思疎通がとれるけれども、本当の意味で目の前の人が何を感じ、考えているのかは絶対にわからない。観測しようにも完全には観測できず、自分と同じ観測者たる対等な存在なのだ。

そして、ここが大事なのだが、僕たちは自分以外の人間がそういう未知の塊であることを本能的に知っている。

もしかしたら、植物だって考えるかもしれない。微生物だって言葉を解すかもしれない。そういう意味で、彼らも僕らの孤独を解消する外部の存在になる可能性もある。

けれどそれは本質ではない。やはりここでも自分がどう感じるかが問題なのだ。

普遍的な価値観として、自分以外の人間こそが、最大にして唯一の他者なのだ。

だから僕たちは誰か他の人間に承認されないと生きていけないし、承認されることによって自分は確かに存在しているのだと確認することができる。


僕の結論はそんなところである。




ここまで書いておいてアレだが、上に述べたことはぶっちゃけその筋の人からすると適当にも程がある話だと思う。

こういったことを扱う学問はきっとあるはずで、僕のちっぽけな教養を振り絞るとそれは哲学や心理学の領域ではないかと思われるが、僕にその手の知識は一切ない。

だからここまで読んだ奇特な人がもしもいて僕が書いたことに何か感じるものがあったとしたら、いろいろと申し訳なさすぎるのできちんとした本で調べてみてほしい。まあ僕自身にそんな気はあまりないが。


承認欲求と折り合っていく方法は、まだ全く考えつかない。

ただ、多くの人が持っているであろう「承認欲求=悪」という価値観は個人的には和らいだ。

そりゃ承認されてえよ、ひとりぼっちはさみしいもんな。


ただ、承認欲求を表に出すことに対する不快感はやはりまだあって、それが何故なのかを考えることもまた面白いとは思うのだが、FGOで星5を引いたとしても爆死した人にスクショ画像を横から失礼しない、そんな程度には他の人を思いやって承認欲求を満たしていきたいと思う。